子規の句碑 (しきのくひ)

正岡子規(1867-1902 俳人・歌人。松山市生まれ36才で没す)

「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」で知られ俳句と短歌の革新に努めた正岡子規は、1867年愛媛県の松山市に生まれ、1902年36歳の若さで病で亡くなりました。
子規は、現在の東京大学の予備門在学中の明治22年の4月、春休みで帰省しているはずの学友・菊池謙二郎の水戸の実家を訪ねた際、友人と二人でこの地を訪れました。あいにく菊池とは行き違いで会えなかったのですが、子規が好文亭に上り崖に懸命に咲く梅を見た際の句、「崖(がけ)急に 梅ことごとく 斜めなり」 が刻まれています。
この碑は、昭和28年(1953)に常磐神社境内の東湖神社裏に建てられたものを、昭和40年(1965)に現在地の南崖斜面に移設されたものです。
  また、野球をこよなく愛し名キャッチャーとしても活躍した子規は、偕楽園見晴らし広場で野球に興じる子供たちの姿を「水戸紀行」に残しています。子規は、野球の発展に功績があったとして、2002年(平成14年)に野球殿堂入りをしました。

子規の句碑
南門とくぬぎ門との間、斜面中腹にあります

子規の句碑

初秋の「子規の句碑」

子規の句碑の背面

子規の碑の背面


正岡子規と野球

野球殿堂に掲げられている正岡子規のレリーフ
  (写真提供:野球体育博物館)

明治17年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、野球に熱中したといわれる。22年7月には、郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、松山中学の生徒らにベースボールを教えた。23年2月、『筆まかせ』の雅号の項に「野球」が初めて見られ、幼名「升」から(のぼーる)と読ませている。29年には「日本」新聞に連載された『松蘿玉液(しょうらぎょくえき)』の中で野球のルール、用具、方法などについてくわしく解説している。野球を詠んだ短歌、俳句も数多く見られ、新聞や自分の作品の中で紹介し、野球の普及に多大な貢献をした。「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」「今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな」(野球殿堂に掲げられている「正岡子規の顕彰文」より)

野球殿堂とは
東京ドームにある野球殿堂は、日本のプロ野球などで顕著な活躍した選手や監督、野球の発展につくした人をたたえるために、1959年(昭和34年)に創設されました。正式名は野球体育博物館といいます。表彰制度には競技者表彰と特別表彰があり、子規の没後100年を記念して特別表彰として2002年(平成14年)に野球殿堂入りをしました。登録番号は144です。
子規は、「野球を題材とした短歌、俳句を数多く詠み「野球(のぼる)」の雅号も使った文豪」として紹介され、肖像のレリーフが飾られています。
2009年の野球殿堂入りは元ヤクルト監督の若松勉さん(61歳)ら4人が選ばれ、野球殿堂入りは168人になっております。

野球殿堂(野球体育博物館)へリンクします。

 
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